昭和56年4月18日 月例祭における教話 【 末永信太郎 】
16日の御大祭を奉仕させて頂きまして、今日のお月次祭でございます。いわゆる、お祭り続きである。本当に日々こういうお祭りが心の底から奉仕し、またお参りをして、一日一日のお礼を申し上げれるようなおかげを頂いたら、有り難いです。それには、やはり日々がやっぱし有り難いという中身がなからなければ、なかなか、そうお祭りばっかりする訳にはまいりません。
今度のお祭り、宮崎からお参りになっておられる御信者で、ある教会で修行をなさっておられる。出来るなら、合楽に修行に来たい。そして、合楽から御本部へ修行にあがりたい。そして、お道の教師を、もう年配の方ですけれども、教師の資格を頂く為に、学院に行きたいという願いを持って、お願いをしておられれますけれども。そこの教会の中心の御用が出けておられる方ですから、なかなかお許しが出ない。
いや、むしろ、その合楽にお参りされる、するという事は大変に、まあ、お嫌いになる、先生が。それでも、やっぱり抜けつくごつして、まあ、お参りになられておられます。まあ、そこに信心のそうした悩みがございますので、ちょうど、御大祭の前日、合楽にお参りをする事、また、自分のまあ、身体と申しますか。心が、こう定めかねておる。まあ、義理から言えば、今まで長年御信心を頂いておった教会から修行に出るのが本当だけれども。
信心のことから言うと、どうでも、やっぱし合楽でおかげを頂き、合楽からおかげを頂きたいという念は、もう募るばっかりでございますけれども、そこに、やはり悩みを感じて、その事を一生懸命神様にお願いをして休まれたと。ところが、ちょうど御大祭の前の朝、お夢を頂かれた。そのお夢というのが、海水とまし水と頂かれた。どういう事だろうかと、お夢の中では、まあ、思いよる。そしたら、その、これはお声で、お夢の中で、宮元武蔵と頂かれた。
ご夫婦で、どういう事じゃろうかと言うて、まあ、練られるけれども分からない。皆さんでも、やっぱりお夢を頂かれたり、今朝から、今日の研修にもその事が話題になったんですけれども。せっかく神様がお夢にお知らせを下さったり。ね、または、御心眼を下さったりするのですけれども。それが、頂いただけで分からなかったら、また、分かってもそれを行じなかったら、まあ、頂かんのも同じというのではなくて、頂いて行じないのですから、これは、神様に対するお粗末になる、ご無礼になる。
なら、皆さんでもそうです。はあ、合楽でお話を頂く、有り難い。もう、今度も御大祭に初めてではないですけれども、この、梶原先生の奥さんのご親戚の方達が、ご親戚一同でお参りをしておられる。それで、私の話を聞いて下さって、こういう高度なお話を今までかつて頂いた事がなかった。と、まあ、大変な感動で帰られたという事でございますけれども。
どんなに高度であろうが、素晴らしかろうが、例えば、んなら合楽で説かれますように、とにかく、ね、簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かですという風に言われる信心でも。ね、それを、いかに見やすいからと言うて、それを行じなかったら駄目です。ね。行なわなかったらおかげにはなりません。という事は、それを頂いても、お粗末にするという事は、ね、かえって神様にお粗末になると、ご無礼になるといったような気が致します。頂いたものを無駄にするのですから。ね。
私、今、只今ここでお礼申させてもらう時に、子供の時に作った竹とんぼを、こう、両端をプロペラのように削りましてね。こう、中に芯を立てる。と、こう、ね、一生懸命、力を入れてパッと捻りますと、ね、一人でにス―ッと上に上がるでしょう。ね。ただ、あのまま、ちょっとこう上げただけじゃ、上には投げ上げる事は出けるけれども、なら、こうやってもっと上に、一人でに上がるという事はありません。やっぱり、ここにこう、力が入れられなければならん。
頂いた事に、言うなら焦点を置いて、言うなら信心のけいこを日々させて頂くなら、それこそ日々がお礼参拝であり、ね、日々、それこそ心にお祭りを頂く事が出ける。ね。そういうおかげでなからなきゃならない。ちょうど、大祭の朝、前の晩から見えておりましたから、その今のお知らせの事を頂かれた。皆さん、聞きながらどういう事だと思いますか。皆さんでもそうです。せっかく神様に頂いても、分からなかったらね、いけません。だから、そりゃまあ、お伺いもせんならん。なら、お伺いをして、今度は分かったなら、それを神様がわざわざ教えて下さるのですから、実行せにゃいかん。ね。
言うならば、水と油であったら、これは一緒にはなりませんよね。ところが、海水とまし水であるならば、一緒にすれば一緒に出ける。どっちも水ですから。ね。いわゆる、〇〇の教会と合楽の信心。いわば、まっ、と、一つにして行く事が出ける。いや、それだけではない、宮本武蔵である。ここまで頂くと、皆も分かるでしょう。ね。上等使いの、言うならば名人にも達人にもなれよという、神様のお知らせであった。もう、それを頂いて、夫婦の方が感動された。
お母さんはここへ熱心に参って来ますから、もうどうでもお父さん、もう、そげな義理や人情やら言わずに、合楽から言うなら修行に行って下さいと。ん~、私もそう思うけれども、長年のいわゆる、あれがあるから、人情から言うてもそれが出けん。もう、迷いに迷うての事であった。ったら、神様がそのような、言うなら海水とまし水というお知らせを頂いた。一緒にする事が出ける。しかも、宮本武蔵という事は、剣の達人とも名人とも言われた方ですから、その両刀を持って、言うなら、一切の事に立ち向かう事の出けるような名人にもなれよという、お徳も受けよという神様のお知らせであった。
もう、その事が有り難うして、有り難うして帰った。帰ったら、さっそく教会( )がついた。合楽にお参りした事が、もう分かった訳である。それで、もうさんざん、まあ、言うならば悪く言われなさったけれども、ははあ、ここんところが両刀使いの稽古だなと思うたから、心では有り難いと思うて、今日はお礼が申し上げられたというお電話が、今朝から入って参りました。ね。
本当に神様はね、どういう中からでも信心を下さろうとする。どういう中からでも有り難く受ける手立て、稽古を教えて下さるのである。ね。今日も鳥栖の上野初美さんがお参りになった。それも、今朝からお知らせを頂いて。それが、(つきやみ?)がこう、ある。つき網ていうのは、網とも申しますね。小さい、小さい海老を、こう塩漬けにしたのですかねあれは。そういう、その、お知らせを頂いた。そして、横に原節子さんがおられるというのである。
善導寺の原さんが、ね、おばあちゃんの原節子と言われます。その原節子さんがおられる。そすと、つき網と。この二つを持って、その、何か御理解を下さっておるけれども、意味がわからん。皆さんはどうでしょうか。皆さんが頂かれたら、どう感じられるでしょうか。今日、修行生の先生方にその事を、アンタ達がもしそういうお知らせを頂いたり、お伺いがあったら、どうあんた方答えるかと。
やっぱり日頃、合楽での言うならば、合楽用語とでも申しましょうかね。覚えとりますか、だいたい、こう、ぶんか?、原節子さんという事はこういう事であろう。網という事はこういう事であろうという事は分かるけれども、一つの御理解にするという事が、まっ、出来かねるような感じでございました。皆さんはどうでしょうか。ね、だからそういう、例えばこれは大変素晴らしい御理解なのですけれども、素晴らしい御理解を頂いてから、本当にそんなら今日からさっそくその事を実験させてもらおう、修行させて頂こうという気にならなければ頂いても無駄だ。ね。
つき網というのは、これは、私の大好物なんです。ね。私は、もう魚類、肉類、もう子供の時からだいたい頂く気はなかったんですけども、あのつき網だけは、子供の時から頂いたんです。こげな臭いモンどうして食べなさるですかと皆が言うけれども、もう、つき網があったら、もうつき網だけで良いぐらいに、つき網ていう物は私は好きなんです。言うならば、私の好きな。言うなら合楽好みの、まあ、信心という事でしょう。言うなら、合楽の信心という事でしょう。
皆さんが、そういうお知らせを頂いたと思うて、今日はこの事を行じる事に、一つ精進して頂きたいと思う。海老のお知らせは、ここでは修行という。その小さい修行なんだ。それを沢山集めると味も良いし、同時にそれを塩漬けにすると、いつまで置いても、悪くはならない。なら、食欲のない時なんかは、もう、言うなら食欲が出るようなおかげの頂けれる食べ物である。いわゆる、おかげも頂かれる、徳も受けられる修行を、日々小刻みに。
小さい網の海老のような信心を日々心がけさせて頂いておれば、ある事、ある事、沢山ある。ね。原節子さんという事は、まっ、節と書いてあるから。ね。信心の節という事でもあろう。確かにそうでもあろうと思う。一日の内にでも、その色んな節がいくらもある。はあ、ここは成り行きとして有り難く受けなければならない。ここは、言いたいけれども、黙って治めなければならないところだというような事を、もう一日の内にいっぱいある。ね、それを、とうとう言うてしもうた。
ね、ここは節と思うたけれども、また落第したと。ここは、成り行きだから大切にせねばならんと思うたけれども、どうも自分にゃ部の悪い、損になるような事じゃから、向こうの方へ押し返してしもうたでは、いつまで経っても網づけにはならない、お徳にはならないという事になりましょうが。ね。言うならば、合楽好みの信心。言うならば、いつも心掛けておると、一日の内にその網のように小さい事のようであるけれども、小さい事が積もり積もって、言うならばお徳になる。
言うなら、塩辛という、いつまで置いても悪くならない。いつまでも置けれる、いつまでも、いつまでも頂いて行けれるお徳にもなる。だから、小さい事ですから、案外うかつにして言うてしまう。ね。したら、自分で今日はそれを言うておられました。今、娘さんが、年頃の娘さんがおります。まあ、色々な問題が色々ある訳。それで、もう、それこそ、もうちょっと外へ出る時にゃ、あげんも注意せにゃいかんばい、これいかんばい、あげな男と付き合うちゃいかんばいちゅうごたる風な事まで、言うて聞かせなければ出そうごとはなかちゅうごたる感じなん。
もう、自動車に乗るでん、ジーッと横におってから、これは向こうから何か来よるばい、あれが来よるばいち言うけん、かえってこの頃はショウトしとる。ほっでもう、おかげ頂いてからですね、こう、跳ね上げられちから、相手ん自動車のぼての上あがっとった。ほらあ、もうちょっとそればってん不思議なおかげじゃ、もうアンタが横で喧しゅう言うけんでち、けど言うたけん、やっぱおかげ頂いたつかも知れませんですけどね。そういう事がありました。ね。
そこで、なら、合楽で黙って治めるということを、自分は一つも実験してない。例えば娘対親、お母さんとの間の事だけでも。ね。それこそ、ブ―ッと腹かいとけちゅうこっちゃないもん、だから。ニコニコしとってんよかもん。(はいいっとくこいいっちょのはいってらっしゃらよかの?)。あれはちょっと、んなら大人から見て、ね、目に余るような事があるところは神様へ向けてお願いをする。
そういう風に思うたら、いわゆる、つき網の修行は一日の中にいくらも、沢山あるというのである。ね。原節子という事は、腹を節約するという事ばいと言うて話した事でした。ね。自分の腹、例えば言いたい事でも言わんで押さえておく。節という風にも頂けるでしょうが。ね、自分の心を押さえて行くという生き方。ね、それを、成り行きを大事にするという事にもなることもあろう、黙って治めるという事にもなろう。だから、これに徹する時に、つき網の、言うならば、ような、いつまで置いても悪くならない。
それこそ、ご飯がいけん時でも、食欲が出るような味わいのおかげにもなって来るという事でございます。ね。今朝からの御理解に、信心とは和賀心が神に向かうというのである。神に向かうという事は、毎日お参りをしとります、拝みよりますという事ではない。ね。神に向かうという事は、言うならば、只今申しますように、教えに本気で取り組むという事なのです。ね。
今日はもう、それこそつき網の修行をさせて頂く。どういう笹いな事であっても、合楽理念を紐解いて、合楽理念に基づいての生き方を日々させて頂く、実験をさせてもらう。そこに、生まれて来る実証、有り難い。それこそ、今日も毎日の、言うならお月次祭ではなくて、毎日、ね、自分の心の中に日祭りをさせて頂くようなおかげが頂かれる。和賀心が神に向かうのを信心と言うのじゃ。今朝からの御理解には、ね、例えば、ね、人に信用されるという事ほど嬉しい事はないでしょうが。ね。
あれ、相手の方が私を信用してもらっておるという事は、尊い事であると同時に、有り難いこと、嬉しいことで同じこと。神様もまた、氏子から信じられるという事を一番お喜びになるのです。ね。神様を信ずるからこそ、こうやってお参りもしておるけれども、その信ずる程度がね、いよいよ確信という事まで。どのような事が起こって来ても、黙って治めるとか。
ね、心を押さえて行けるのも、どういう事であっても一切が神愛、神様のお働きであると信ずるところから、黙っておる事も出けれる、ね、成り行きをいよいよその事事態を尊ばせて頂く生き方も出けて来るのである。ね、受けられない、ここは言わにゃ一つ、一言いうとかにゃというのは、神様を信じていないという事になりはせんでしょうか。神様の働きであるという事を信じていない。ね。信じておるつもりであるけれども、いよいよ何かという時には、もう自分で人間心で裁いておるといったような事では、神様を信じておるとは言えません。
その神様を信じて疑わない、止まないその心が、段々募ってくる。合楽理念に基づいての日々が出けて来るようになる、神様をいよいよ信じて疑わない、言うなら、信心の確立というか。言うなら、確信を持ってその事、一言一言に対象して行けれる信心。神様が一番喜んで下さる。よう皆さんが、どうぞ今日も神様にお喜び頂けるような信心をさせて下さい。お参りでもなからなければ、お供えでもない。ね。
そういう信心が分かっての、また、そういう信心を目当ての信心をさせて頂くけいこに参って来るのであり、また、お供えでなからなきゃならない。神様に喜んで頂くという事は、神様をもう限りなく信じて行くけいこであります。信心ね、和賀心が神に向かうて行くのをと。信心、信ずる心というのは、神様へ向かって行く。その確信の度合いが段々強うなって来るという事が、信心じゃと仰せられる。ね。
信心なければ世界が闇なりと仰せる。ね。確かに、世界は闇なりでありますけれども。信心をしとれば、そんなら皆が光を心に頂くかと言うと、そうではないです。参っとるから、拝んどるからと言うて、言うならば起きて来る一言一言に悶着をつけるような事では、光がなりません。それこそ、黙って治める事が出ける、有り難く成り行きを大事にして行く事が出けるというような信心をさせて頂いて。ね。初めて、信心。いわゆる、お道の信心、金光様の御信心とは、それを持って信心と言うのじゃという事になるのじゃないでしょうか。
そこを、疑う、信じて疑わない生き方が出ける時に、もう貴方の心には光が燈った。一家がそういうような明かりの中におかげを頂く事が出ける。ね。それが、隣近所にも広がって行くようなおかげを頂いた時に、世界が闇と仰せられる、世界が光明に輝くようなおかげを頂くのですから。そういう光の輪をいよいよ持って広げて行く事のために、自分の心に先ずは光をということ。
お参りをせりゃ光が出けるという事ではない。日々一つ、ね、つき網漬けのおかげを頂いておると思うて、笹いな事も信心。今言う、合楽理念を持ってそこを頂いて行くという生き方。ね。神様を信ずる事が出ける。いわゆる、信心の確立ともなる時に、初めて神様もまた、氏子を信じてくださる。もう、あの氏子はどういう事であっても、合楽理念を持って書して行くのですから、もう、神様も心配がいらん。神様が安心をして下さる。
その安心が、またこちらに頂けて来る時に、私どもも日々、平生心というか、安心の言うならば心を持っておかげを頂く事が出ける。ね。私は今朝から体験させて頂いた事ですけれども。今、私はあの、洋風のベッドに休ませてもらいます。だから、上には度々カバーをね、かけなきゃなりません。まあ、本当に面倒臭いなあと思う時には、もう何時まで経ってもシワがピシャッとならん。だから、余計面倒臭いなあと、こう思う。
ところが、これは私の流儀ですから、面倒臭いなあと思う時には、やっぱりそれは修行と思うて、それに取り組みますけれども。気持ち良い、(いっちょ何かもう?)有り難うして、有り難うしてというような心の状態で目が覚めた。有り難い。ですから、有り難いなあと思うて、こうやって、そのカバーをかけさせて頂いて。こうして、こうしたら一人でシャ―ッと、もう、あの、一人でにカバーがかかって行くのです。ね。有り難い心が、いうならばそういう、普通で言うなら面倒臭い事でも有り難く受けられるような時には、物事すべてが整い、すべてがスムーズに行く時なんです。
お商売なんかでもそうです。ね、売る事ばっかり考えておるじゃなくて、自分の心が先ず、さわやかに、有り難い。さあ、今日もどうぞ御用に使うて下さいといったような時には、もう、それこそ乗りに乗った一日が頂けるという事が言えるのじゃないでしょうか。ね、先ずは自分の心に和賀心。いわゆる、和らぎ賀ぶ心。さわやかな有り難い心で、日々を過ごさせて頂く事のために、日々、それこそ小さい、小さい海老のような修行が私どもの周辺にはいっぱいある。
ね、それを、皆さんが行じて行かれるところからです、心はいつも平生の心を頂く事が出ける。ね、その平生心、さわやかな心で事々が行なわれて行く時に、言うならば出けんはずのが出けて行くスムーズさが生まれて来る。不思議なもんですよ。自分の心が、ね、それは信心のない者では、とうてい分かる事の出けない心の状態です。先だって、15日、前夜祭の後が、富久信会でございましたが。
あの、加藤さんご夫婦も一緒に参加しておられました。で、加藤さんが発表しておられましたのに、先日、お兄弟の(ご主人は?)、何か大変大きな会社、商社ですね、に勤めておられる。ところが、いつもその、悩み事、心配事がいっぱいある。話を聞いてみると、有り難いお礼を言わねばならんごたる事ばっかりなのである、加藤さんが聞かれるところ。もう、それはアンタ、お礼ば申し上げなんて、そりゃあもう、有り難い事たいというような事を、もう真剣に夜も眠られないように、考えたり、心配したりするという話を聞きながら、自分のだんだん電気屋さんですか、電気器具を売っておられます。
大きな、もう今度の、九州で何件といったような風に選ばれて、表彰を受けにこの頃から東京、それから京都でもそれがありましたそうですが。その発表もなさっておられました。繁盛しておる。その繁盛のボト?と言うのは、ね、どんな場合であっても心が騒がない平生心であり、それこそ、毎日お参りをされてからの第一のお届けが、今日もどうぞ千日の、千回の喜び。一日千回の喜びという事を願われます。
ね、だから、どういう網のような。ね、いわゆるつき網の、あの海老のような小さい事でも漏らさずに、それを合楽理念で有り難く頂いて行こうとする、その精進が。出来る出けんは別として、その、それに取り組んで精進しておるという事で、いかにもそれが精進して出けておるかのようにして、おかげを下さっておるのが、加藤電気じゃなかろうかという風に思うんです。ね。完璧という事はなかなか出けませんけれども。日々の願いの焦点がそこに置いてある。
そして、その兄弟が言われた。そりゃあ、アンタが言う事は分からんて。そげな、人間がそげん心配、こげなことになっとる、心配せんでよかてん何てん、そげな心が頂けるはずはない。そんな事はないと言うて、まあ、断言されるぐらいである。ところが、実際ここは信心を頂いて見なければ分からない世界なんです。信心を頂かなければ、なるほど夜も眠れられんように不安でもあり、心配であるような事もありましょうけれども。それを成り行きとして有り難き。
一日千回の喜びといったような喜びで受け止めて行かれるところに、ね、信心のない者では想像もつかないような心が育って行く。和賀心がいよいよ神に向かうて、進んで行っておられる証拠なんです。ね。心に光があるから、どんな真っ暗いような事であっても、どういう難儀な問題の中にあっても、心の光で持って、いつも暗い思いをせんで済むという道理なのですから。ね、話を聞けば分かるけれども、信心がない者、薄い者は、こげな時に心配せんてん何てん、そげな事は出けん。
人間であるじゃ、そげな事は出けんと言うて、まあ、言われたという、それを聞かせて頂いて、いよいよおかげ頂いとるなと自分で思うたという話をしておられます。ね。そういうおかげをね、日々の生活の中に頂いて行きたい。御理解を頂くと、悩みに悩む、迷いに迷うておる事であっても、ね、それこそ、カー、こここそ、両刀使いのおかげであると、両刀使いの達人にもなろうという精進をして構えておれば、今までなら、いちいちうるさい事である、歯がゆい事であると思うておった事が、有り難く受けられたという、今朝から宮崎のお電話のお礼であるように。ね。
また、上野さんが頂かれた網と原節子さんのお知らせを頂いて。はあ、ほれはもう、さっそく今日から、例えば対娘の場合であっても、もう神様にお願いをした限りは、どんな場合であっても、黙って治めさせてもらう。心配になる時には、いよいよ一修行させてもろうてでも。ね、娘の事を黙って祈ろうというような信心が出けて参りましたら、心に必ず光が伴る、安らぎが生まれて来る。どんなに暗い中にあっても、言うなら暗い思いをせんで済むようなおかげを、いよいよ頂きたいもんであります。どうぞ。